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江別太 開校までの歴史 

 明治中期の江別太。越後村の集落、幌内鉄道、越後沼周辺の原野の状態がわかる。現千歳川に「ユベオッ」の標記。この地図は、国土地理院発行の5 万分の1 地形図(江別・明治29 年版)を使用。

昭和23 年12 月18 日開校にまつわる二つの疑問

 一つ目の疑問は、冬のこの時期に開校したのはなぜかということ。もう一つの疑問は、明治初期に行われた地域の開拓と、戦後の本校開校に62 年もの間があるのはなぜかということです。
 この二つには共通した理由があります。二つの疑問を解明することで、地域の方々の教育にかけた熱い思いを明らかにしたいと思います。 (石黒)

 

■ 先史時代からアイヌ時代 漁撈適地、交通の要衝

 「江別太遺跡」の出土品が国の重要文化財に指定されて、江別市郷土資料館に収蔵されています。江別太遺跡は、道央高速道路の千歳川橋脚建設工事が行われた昭和53 年に発見された縄文時代晩期末から続縄文時代中頃の約2300~1700 年前の遺跡です。発掘場所は千歳川の流路跡で、川の湾曲部から魚を捕らえる梁の遺構やヤスなどの木製漁具、サケなどの魚骨が出土しました。低湿地にあるため通常なら腐ってしまう遺物が出土したのです。
 先史時代からアイヌ時代にかけて、江別太地区は漁ぎょろう撈を中心とした生活の適地、河川交通の要衝として栄えました。記録によると、この地には「エベツ・プト」と呼ばれる大きな集落が存在していたことがわかります。「プト」とは、「口」の意で、江別川(現千歳川)への入口、石狩川と江別川が合流する場所を意味しています。
 その後、幕末の蝦夷地支配と明治政府の同化政策が行われるようになると、アイヌ民族の生活は大きな打撃を受け、繁栄していたエベツ・プトのコタンは、明治6 年には、6 戸と記録されるまでに衰退していました。

 

  江別市郷土資料館蔵

 

■ 明治以降の開拓 農業による発展

 

北越殖民社の開拓
農業による発展 
 明治の開拓が始まった時代、幌向原野の一角を占める江別太開拓の草分けとなったのは、明治19 年に新潟県で設立された北越殖民社が入植させた試験入植の越後村でした。
 北越殖民社による移民は、会社と移民の「互換約定書」という契約によって計画的な入植を行う仕組みの前例となり、野幌をはじめその後の全道各地の団体移住に大きな影響をもたらしました。
 しかし、実際に江別太に移住した人々にとっては、泥炭層の低湿地と深い原始林は、開墾の厳しい障害でした。漁撈生活の適地は、農耕生活のための開拓には困難な条件として立ちはだかりました。
 当時の記録「北征雑記」に苦労の様子が記載されています。「開墾地は森林の中で、南側は湿地である。「土地は肥沃で排水溝を掘ればよい土地になるであろうが、樹木の伐採、根の除去はたいへんな仕事で、畑として開かれたのは七~八反である。」この後、洪水による被害を幾たびも受けたものの、住民の協力と治水工事によって災害を乗り越え、福井や富山などからの新たな入植者も増えて、農村地帯として順調に発展していきました。明治40年代から乳牛の導入が始まり、昭和初期には市内の中堅的酪農地域となりました。
 稲作は、水田地帯からの移住者にとって念願でしたが、江別太地区は酪農地帯として発展したため、水田を開く計画は抑制される状況が続きました。土地改良によって大規模な稲作が始まったのは昭和30 年代に入ってからでした。


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