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本校は2006年度をもって開校120周年を迎えました。 これは、在校生や保護者など現関係者はもとより、地域や卒業生の方々にも支えられて積み重ねられてきた歴史とも言えるでしょう。心より感謝申し上げます。 そして、去る2006年9月16日(土)の「祝う集い」及び「祝賀会」におきましては、多くの方々にお集まりいただき、盛大に終えることができました。合わせて御礼申し上げます。 江別小学校の歴史はこれからも続いていきますが、どうか変わらぬご支援・ご協力をお願いいたします。 |
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120周年を祝う集いの 様子はこちらとこちら |
120周年祝賀会 の様子はこちら |
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卒業生です。 私が江別小学校に入学したのは昭和13年4月。当時の校名は「江別尋常高等小学校」と呼んでいました。 戦時色の濃い昭和14年、15年頃、現在の二ノ宮銅像には朝夕頭を下げました。その近くに米軍機捜索用の監視所(高さ20m位)が有り、橋には兵隊が掘った防空壕がありました。 学生帽子は外では必ずかぶり、服には胸章(名前)を付けていました。また、当時5,6年の男子は剣道、女子は長刀の授業がありました。 現在のレンガ造りの火薬庫には天皇の写真及び教育勅語が納入されていました。 冬に使う石炭の焚き付けが無いので、石狩川の江別大橋(江別より5km)までヨモギを取りに行きました。また、ヒマという葉を取りにも行きました。江別で作っているベニヤ飛行機の接着剤に使用するとのことです。 冬の運動会は、雪戦会です。赤組と白組に分かれ、敵方の旗を取った方が勝ちです。 まだまだありますが、以上のようなことが、現在の忍耐と体力をつくりあげた元と思っています。 |
対空監視所 |
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現在の火薬庫 |
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飛鳥山に着陸した飛行機 |
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重兵衛丸(石狩川渡し舟) |
卒業生です。 私は1946年4月に入学。ちょうど60周年の時でしたが、前年が終戦ですから、日本中が物資に恵まれず、教科書はもちろん、鉛筆、ノートなどの学用品は粗末な物でした。軍国主義から民主主義へと世の中そのものが混乱した時代でしたが、屋内運動場に”良く学び、良く遊べ”の掲示があり、みんな元気で明るく登校していたと記憶しております。 ガラスの割れた教室には、冬は雪が入り込んだり、秋の終わりに上級生が刈ったヨモギの枝草をかついで、夕張川(江別大橋)あたりから運び、冬の焚き付けにしました。また、夏の石狩浜への海水浴を覚えていますが、これは千歳川から船で石狩川を下るのですから、今考えると快適なものでした。 こんな中、1年生の時は交通事故で、3年生の時には水難事故でと、2人のクラスメイトを亡くし、6年生の時は卒業式を間近に担任の先生が行方不明になるという事件もあり、小さな胸を痛めました。先生方と有志で早苗別方面までスキーで捜索もしました。卒業の謝恩会は2クラス合同で、今でも往時を思うと寂しく悲しいです。 江別小には、先輩は後輩の面倒をよく見て、後輩は先輩の言うことをよく聞く伝統がありました。また、町内対抗の野球も、同じクラスの中に各地域の選手がいたのですが、勝っても負けても翌日には机を並べ、今度はクラスのために頑張りました。楽しいことも嬉しいことも寂しいこともいっぱいあった萩ヶ丘に、心よりお祝い申し上げます。 |
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野球部の祝勝行進 |
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卒業生(OG)です。 65年前位の前の思い出です。 私の生まれは本籍は美原ですが、通称一原(いちげん)と云って、江別小学校の分校住宅で生まれました。 父は1学級(1年生から4年生)複式を受け持ち、みんな仲良く、ある時は背中合わせになって自習をしたり、半分は先生の方を向いたり不思議な光景でした。4年生卒業時、本校から先生が見え、5年生になったら本校に通い始めるのです。 今の2条1丁目農協倉庫裏が船着き場となり渡し船を利用していましたが、春の石狩川が雪解けとなると、水位が上がり、川幅が広く恐ろしい思いでした。真冬になると、川が凍り楊柳(ようりゅう)を敷いて氷橋を作り、厳寒時は馬橇(ばそり)も通れました。高波の日、吹雪で道の見えない日は赤旗が立って橋廻りとなり、目の前の一直線渡し船が石狩大橋の方を廻って一里半を江小への町の中に入って来たものです。1時間半はかかったと思います。王子の煙突を見ると近いのに、冬に出来る氷橋の2月、3月に岸辺に水面が出来たら、一気に氷が流れ出すから渡らないよう、年長者に云われても渡り、一歩遅かったら川が後ろを向いたら橋が水と共に流れ出していたなど恐ろしい事もありました。年月は思い出しませんが、渡し舟がひっくり返り、川に落ちた人を救い助けようとして川に飛び込み、父の友人鎌田先生が亡くなり、7月15日は学校や勤め人がいるので、朝夜一便のみで日中は慰霊の日として舟止めをしていました。その時は時間まで江別小学校に時間を過ごしました。別紙にあります江別讃歌開基90年、市政15年の記念行事でしたが、川の部「萩が丘」は私自身と重なり伴奏と歌詞も忘れず思い出し歌えるほど好きです。 5年生になって江別小学校本校に来た時は当時高橋秀雄校長先生は威厳があり偉大と尊敬が体一杯に溢れ、遠く廊下の向こうから見えると深々最敬礼をして身動かれない程、絶対恐ろしい位近寄り難い思いでした。 父の異動で5年、6年としか江小に在籍しませんでしたが、江高で同じになり、同窓会も江小の友だちのままです。運動会には「一千有余の精鋭は」の応援歌も今は少なくなりましたが、父→私→子ども→孫と4代江小に入学させていただき、愛着と誇りと共に、もし災害があっても小高い安全な場所を大切に思い、120年の健在に心から感謝祈念いたします。 |
江別港(外輪船) |
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飛鳥山競馬場 |
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昔の運動会 |
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開村50年記念式典 (江別小学校にて) |
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第100回卒業生です。 |
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卒業生(OG)です。 |
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卒業生(OG)です。 |
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卒業生(OG)です。 |
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3年前の卒業生です。 |
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紙芝居の様子 |
昭和36年卒業のOGです。 外観はあのころとほとんど変わっていないようで、「懐かしい!」の一言です。 私が在校しておりましたころは時計塔の中が小さな図書室になっていまして真夏などは蒸し暑く、窓を開けた時の涼風がとても爽やかだったことを、懐かしく思い出します。 当時は旧12号線に降りる坂道の真ん中に、枝を広げた大きな木がありまして、涼しげな影をつくってくれました。お昼になると近くの味噌工場からいい匂いが漂ってきたり、火力発電所の引込み線の踏み切りに、石炭を積んだ貨物列車が通ったり・・・と、さまざまな風景や思い出が去来します。 卒業のときに体育館横に植樹した「萩」は、もう消えてしまったでしょうか・・・。 |
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鉄道橋 |
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